接客業をしているので色々なお客様と接する機会があるのではあるが、最近よく(週に5組程度以上は)見かけるのが、「100%タイ人」同士なのに会話に使う使用言語が「英語のみ」のグループ。
中には“家族”の会話が全て「英語」という人たちも決して珍しくなく、感心するというよりは、タイ人の幼児が英語しか喋らない姿に、少なくとも不思議な感じを受けることがある。
[言語]はその国の文化や風習をど真中で言い表すことのできる大切な手段であると思う。
英語のみでは日本人が感じることのできる日本語の微妙なニュアンスや謙譲の表現、タイ人がタイ語でストレートに表す感情や感覚を的確に言い表す事は、似せた形で言う事は出来ても、100%は困難であろうと思う。
国際感覚を子供のことから身に沁みつけるために、英語授業のインター校へ通わせる事には決して否定的ではないのだが、少なくとも「自分の国」のidentity は家庭を通じて“心”や“躯”の土台として育てられていくべきなのでは? と正直思う。
外国語をちょっとは喋ってみたいと思い、外の国へ出た私がいうのも変なのだが、やはり日本人である以上、日本語は大切にしなくてはいけないと本当に思う。
ただ、タイで生活をしていると、日本人同士でも会話の中に普通にタイ語の単語が出てくることがよくある。
「今日はマイサバーイ だなぁ…。」(マイサバーイ=体調不良)
「あっ、その予定はピセーでよろしく。」(ピセー=スペシャル)
「今日の気候はサバーイ・サバーイ だね。」(サバーイ・サバーイ=快適)
「ソイ33のパクソイで待ち合わせね。」(パクソイ=路地の入口)
こんな感じで、便宜上タイ語を使ったほうが分かりやすい(& 言いやすい)ので、在タイ日本人同士でも結構会話中にタイ語は頻繁に登場している。
これは、タイ語が持っているニュアンスや言いまわしが、日本語よりも的確に当てはまる場合があるので、日本人同士でも意味の理解ができる同士であれば、会話中にタイ語を使うことがある。
こんな感じで、とても簡単な単語でも「言葉の持つニュアンス」というのは直訳では言い表せきれない幅、部分があると感じる。
やはり日本人は日本人である以上、「日本語」は勉強し続けなければと思う。
(私に限れば)子供のころから英語で育てられなくて、少なくても良かったな、とちょっとだけ思う。(英語がうまく話せられない僻みはここでは抜きにして。。。)
同様に。
先日のサッカー日本代表戦をTV観戦していた時の話。
試合前の国歌斉唱のとき、選手が国歌を歌っている姿を見て、私の相方が一言。
「なんでみんな国歌をちゃんと歌えるの?」
「!!!!!(驚)」
子供のころから学校で国歌を歌っていた私には、ただただ、ビックリ。
よくよく聞くと、長野県出身の相方は、学校で国歌斉唱をしたことがないとのこと。学校の授業で歌った記憶もほとんどないらしい。
代わりに学校で歌っていたのは「県歌・信濃の国」(長野県人の間だけでは超有名

・・・そんな話を、北海道出身の身近な人にしたところ、これまた、、、
「俺も歌ったことないなぁ…、国歌の歌詞は知らない」、と。
まぁ、これ以上はいろいろな考え方、事情があるので深くは書かないが、歌う歌わないは一昔前からそうだったらしい。
私は「岩手県→千葉県→大阪府」にある学校を経験してきたが、ずっと国歌を入学・卒業式では歌っていた記憶がある。
ちなみに。
タイの学校教育現場では、毎朝「8時頃」に学生が集まって全員で国歌・国旗の掲揚を行うのが普通。
タイの学校を出たタイ人でタイ国歌やその歌詞を知らない人はまずいない。
これは、タイ国による、タイ人のための、そしてタイ人としてのidentityの確立なんであろうと思う。。。
おととしまでバンコクにいましたが、今はコラートに引っ越しました。
コラートでも何故か英語だけで話をしようとするタイ人グループがいます。郵便局員に話しかけていましたが、通じるはずもなく。。。やはり奇妙です。
マニラではいわゆるハイソだと自負のある家庭では英語で話しています。奇妙です。。
今、コラートにいらっしゃるのですね。
英語=ハイソ という構図はなにもタイに限ったことではないのですね。
日本で英語だけで会話する日本人家族も、もしかしたらいるのかもしれないですが、想像すると、ちょっと奇妙な気がします。。。